相馬中村神社は、神道の上からは天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を祀る。
明治以前の古い神仏混淆の時代から「相馬のミョウケンサマ」として親しまれてきたが、妙見とは仏教でいえば北辰妙見菩薩のことであり北辰、つまり北極星を指し、北方鎮護をつかさどる星の信仰がもとになっている。仏教時代のご神体は玄武に乗った菩薩像で、周囲に七つの北斗星をあしらっていることが多いのはそのためである。明治になってから神と仏は分離され、妙見様は相馬中村神社と改め、祭神も天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)としたのである。
この神称は日本の国土が出来た時、全ての神の中で最も早く、天の真中に出現された神として、諸神の先祖にあたるわが国最古の神である「古事記」に「天地初発の時になりませる神」とある神で初発神社とも呼ばれる由縁である。
相馬中村神社の始まりは、社伝によれば今から約一千余年前の承平年間(西暦931〜937年)相馬家の先祖・平将門が下総の国猿島郡という所に妙見社を創建して戦勝を祈願、併せて国家安泰、国民諸行の繁栄を祈念したことに始まり、後孫師常公(平泉討伐の功により源頼朝から奥州相馬の地を与えられこの地の祖となったが、まだ奥州には来ていない)が、やはり下総の相馬郡に社殿を建てたと伝えた後、元享三年(西暦1323年)になって、師常より六世の孫相馬係五郎重胤公が鎌倉からはじめて奥州行方郡に移ると同時に妙見祠を大田に移し、正慶元年(西暦1332年)小高に築城して移る時、また神社も小高に移した。
奥州下降の時、鎮守妙見の神輿に遷従し相馬公と同行した祠官は田代左衛門太夫信盛にて、現宮司は二十九代の子孫にあたる。
さらに慶長十六年(西暦1611年)相馬利胤公が相馬中村に城を移した時、妙見社も中村城内に移した。これが現在の相馬中村神社である。
したがって相馬中村神社は、
相馬家代々の氏神として崇敬されたばかりでなく、相馬地方の総鎮守として今に至っているわけである。
現在の木社建築である相馬中村神社本殿、幣殿、拝殿は寛永二十年(西暦1643年)に建立されたもので、相馬地方の代表的な古建築として国の重要文化財に指定されている。建築様式は用材として欅をふんだんに使った権現造りである。本殿および拝殿正面の墓股と呼ばれる部材は神社由緒を象徴する様に、馬の彫刻が施されている。
現在建物の外観は白木造りの様相を呈しているが、本殿は本来、木部全体に漆塗りを施したものであった。建立後の350年という歳月により建物は真の姿を隠しているが、内部に施された漆塗り、彩色はよく残り当時の装飾美を今に伝えている。
また元禄の頃、中村勝中輿の藩主と言われる昌胤公は特に吉田神道に帰依された為もあって吉田神道による神事が今に伝わり、こと吉田流の護摩祈祷に昔の名残をとどめている。(現在、正月元旦より十五日の間、相馬中村神社において社家代々直伝による護摩行事を執り行い各々の家業の繁栄はもとより無病息災の祈願を奉仕している。)
現宮司の田代誠信は二十九代目にあたる。また、祖・田代冠者信網を祀る田代観音は神奈川県鎌倉市の名越町にある。
- 倒大祭
-
四月 十八・十九日
桜花満開の時期に行う例祭で参道の桜が実に美しく祭を盛り立てる。
また、古武道演武も催される。
- 相馬野馬追祭
-
七月最終 土曜・日曜・月曜
日本最大級の馬の祭典。起源は平将門の軍事訓練。野山に生息する野馬を捕え妙見様に奉納するのが行事の真意である。明治以降、野馬がいなくなったので騎馬武者達は神旗争奪戦にて武勲と馬術を競う。
1日目を”お繰り出し”といい、相馬中村神社のお神輿は神主を筆頭に甲冑で身を固めた騎馬武者に供奉され南相馬市原町区の雲雀が原を目指す。2日目は本祭りといい、雲雀が原祭場地にて甲冑競馬や神旗争奪戦が行われる。この時、原内には約五百騎もの騎馬が集結する。最終日の相馬小高神社にて執り行われる野馬懸は当時の原型を留める行事である。この勇壮な行事は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
相馬中村神社は藩主家をはじめ相馬全領の総鎮守として領民の信仰を集め、藩政時代は武神として相馬武士道の精華の源泉であり、その名残は今、野馬追に厳然と残り全国に知られています。
その他牛馬躰の安全、交通安全、特に妙見信仰の現れである海上安全に至るまで、幅広い信仰が地元はもとより、北海道、東北の広い範囲に及んでいるのは御神徳のいたすところです。 尚、境内には学問の神 北野天満宮、将門公を祀る国王社、酒造の神 松尾神社、旅行安全の神 足尾神社、疫病除去の神 八坂神社など大小幾つもの社があって、参詣の後を絶たない御神域であります。
本殿西側には「オミダラシ」という御神水があり、現在も水が湧き出で、信仰する方々の深く渇望するところであります。
29代目 田代誠信さんは、お亡くなりになりました。
先代 田代誠信宮司の指名により
現在、30代目森拓樹宮司により継承。
田代誠信家 三女 森夏沙幸の夫である。